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 2011年にお会いしてから直接お話する機会はありませんでしたが、フェイスブックで交流させていただき、和田さんから発信される情報を興味深く拝見していました。年賀状に添えられた一言の温かさが心に残っています。公共施設勤務から現在は企画制作会社を経営され、卓越した能力とお人柄が伴わなければ実現できないことだと推察します。最も驚いたのは名取市文化会館にお勤めになったこと。確固たる信念、志、想いがなければできないことではないでしょうか。
  (インタビュー:2015年3月8日) -文・構成・写真= 蓑島晋・畑中洋子(シン・ムジカ)-




■出会いとお互いの印象
― 最初にお会いしたのは2011年11月の東京文化会館でした。その現場で共通の友人が和田さんを紹介くださり、ご挨拶させていただきました。

和田知彦(以下「和田」)  リハーサル室辺りの廊下でご挨拶したのを覚えています。

― 当日は忙しくてお話できなかったのですが、その友人から「ホール施設に勤務していたこともあるし、今は独立して音楽の仕事をしている人で、境遇があなたに近いでしょ」と教えられて、それで和田さんに興味を持ち、お会いする機会はありませんでしたが年賀状やフェイスブックでお人柄を拝見して、ぜひお話を伺いたいと思っていました。

和田  私も蓑島さんの年賀状やフェイスブックを拝見して、静岡と東京で企画を形にして、何かしら地に足が着いた考えを持って頑張って仕事をしている人なのかな、と感じていました。

― 果たして地に足が着いているかどうか・・・びっくりしたのは、和田さんが東京を離れて被災地の名取(宮城県)に行かれたことです。名取に行かれてからも、和田さんの動きや考えをずっとフェイスブックで拝見していました。私自身も悩みながらコンサートの仕事に関わらせていただいていて、それぞれの現場で、スタッフ・出演者が顔を合わせた場面で、必ずしも皆が同じ理想に向かっているわけではないと感じることがあり、違和感を抱いていました。そこで色々な方と話をして、どんな考えでコンサートや舞台を創ろうとしているか聞いてみたい、ギャップに感じることを埋めていきたいと思い、この企画を始めました。

和田  なるほど、アクティブですね。

― 逆です、内にこもるタイプだからこそ始めました。



■一般企業から音楽業界(公立文化施設)へ転身した経緯
― お仕事について、これまでの経緯を教えてください。

和田  こうして振り返ることが今まであまりなかったので、面白いですね。

― 一般企業から音楽業界へ転身されているんですね。

和田  「理系の勉強をしていれば潰しが効く」が口癖の技術職の父の影響もあって、中学・高校と理系で、大学もなんとなくで化学科に進みました。大学では慶應義塾ワグネル・ソサイエティ・オーケストラに在籍してインスペクターも務めました。学内のオーケストラ活動だけでなく、神奈川県民ホールなどで搬入搬出のアルバイトにも明け暮れていました。そうした経験もあって、漠然とクラシック音楽の業界に就職したいと思っていましたが、親の反対などもあって、これまたなんとなくで当時注目され始めていた光ファイバーを扱っている古河電気工業株式会社に就職しました。

― そちらではどれくらい勤務されたのですか。

和田  3年と2ヶ月です。後から思えば、いきなり音楽業界に就職するよりも、こうした企業で働いた経験は役に立っていると思います。入社1年目の終わりに休暇を取って3泊5日でウィーンに行きました。いくつかコンサートを聴いているうちに「やっぱりこれじゃないのかな」と思って・・・。2年目から「やっぱり音楽に関わる仕事がしたい」と思い、大学オーケストラの先輩で音楽業界で働いている方々を訪ねて周って相談させていただきました。そうこうしているうちに慶應義塾大学のアートセンターの社会人も受け入れてくれるアートマネジメント講座を紹介されて、3年目の1年間、毎週土曜日講座に通いました。アメリカのダンスカンパニーや都内の老舗画廊、テレビの音楽番組や公共ホールなど、様々な分野のゲストスピーカーの話に触れた中で、公共ホールや文化振興といった分野が、まさに自分のやりたいことかもしれない!! と思いました。年度の終わり頃に「パルテノン多摩の職員募集の要項があるので、ほしい人は授業の後に取りに来てください」と案内がありました。

― アートセンターで求人があったのですか。

和田  はい。そして運よく採用していただけて、4年目の1996年の7月からパルテノン多摩に転職しました。それからの3年9か月の間、音楽業界でキャリアのあるプロデューサーや演劇界の経験のある先輩など、そうした方々に仕事のイロハから色々教えていただきました。音楽をはじめ様々な芸術文化ジャンルの専門性、教養雑学、社会常識、行政的なことまで多岐に亘って、今でもこの時の経験が原点でありベースになっていると思います。

― そちらでは、具体的にはどんな風にホールの事業制作に関わっていらしたのでしょうか。

和田  もともと気が利かない方だったので、とにかく来客の方にお茶を出すことから、公演の交渉や調整の仕方の細かなこと、価値観的なことまで、本当にたくさんのことを教えていただきました。いつも同時に20ほどの公演を担当していて、先輩がどの公演の話をしているのか付いていけなかったり、よく怒鳴られたり叱られたりもしました。当時はちょうど携帯電話が普及し始めた頃だったので、朝から夜中まで場所を問わず・・・。

― 当時のパルテノン多摩の自主事業といえば、高尚なクラシックのイメージがありましたが、企画内容と集客とのバランスはどのように考えていたのですか、どちらが優位であるとか。

和田  両方だったような気がします。例えば新日本フィルの多摩定期シリーズでは、小澤征爾さんの時は完売するわけですが、シリーズ全体的に底上げできるように考えたり、お客様の対象エリアも多摩地区だけでなく都内23区も含めるような工夫もしました。ワールドクラスのアーティストの公演はかなり集客は良かったと思います。ジャンルのコアな層のお客様に対応するために、きちんとしたレセプショニストの会社に委託したり、集客が難しい現代音楽のジャンルも事業として守っていきたかったですし、集客の努力をしていたように記憶しています。

― 全体の公演を通してバランスを考えていたということですね。年間何公演くらいありましたか。

和田  自分が担当する音楽事業だけで、主催事業公演が年間で20公演くらい、共催も含めると30公演ほどあったように思います。それ以外に市民企画の共催や後援、それから毎年夏にホール裏にある中央公園で3,000人規模の野外ジャズフェスもありました。ジャズフェス業界の方々と、一から企画を練って相当ダイナミックな企画プロデュースをしていました。通常の主催・共催事業とは別枠の多摩ニュータウンのイメージアップのための事業で、いい時代だったのかもしれませんが扱う予算の規模も大きく、大きなイベントの現場がどういう関係者が分業して指示系統の元に動くのかなど、他ではできない貴重な経験をさせてもらいました。



■劇場コンサルタントとして経験したこと
和田  そして2000年の春に劇場コンサルタントの会社に転職しました。新しく劇場/ホールを建てる際の、音響設計以外の舞台機構や舞台照明のコンサルティングをメインにやっている会社でしたが、その他にもホールに関することならハードもソフトも何でもやる会社でした。社員の多くは建築の勉強をしてきた人たちでしたが、実際の舞台芸術の現場・ホールの管理運営の現場がわかっている社員もほしいとのことで、これも知人に紹介してもらって転職をしました。私が担当した計画は、北上(岩手県)、南相馬(福島県)、日田(大分県)、都城(宮崎県)など。設計者が決まる前の基本構想・基本計画、設計者選定、設計段階の設計者や施工段階の施工監理者との打ち合わせ、事業や利用規則など管理運営面の市民の委員会のファシリテーターや、先進施設の視察のコーディネートなどもやったりしました。

― 担当のホールが決まると、そこに関わる期間は長いのですか。

和田  続いた場合はそうでしたね。北上の計画では、確か約4年間通いました。1年目は基本設計・実施設計と並行して管理運営の基本計画、2年目は施工が始まった一方で管理運営の実施計画、3年目には財団設立や職員採用、4年目はいよいよ竣工・開館に向けての準備と、行政の建設準備室の方々や市民の委員会の皆さんのサポートなどさせていただきました。日本全国、コンサルなど入れずに建設されるホールの方がほとんどかもしれませんが、何のためにホールを建てるのか、町の人口規模に対してどの程度の客席数にするべきか、例えば伝統芸能の盛んな町であればそのための使い勝手を考えた舞台設備にするなど、地元の皆さんと話し合ったり、それを設計者と共有したりもして、とても良い経験になりました。

― その地域のことを良く知らないといけないのですね。

和田  そうですね、特に北上の時は、役所の方々も市民の皆さんも奥ゆかしくて会議ではしゃべってくれずに、会議の後に飲みに行って2軒3軒とハシゴして、何回も何回も通っているうちに、やっと本音を話してくれるようになったり。

― 大変なことですね。ですけど、和田さんらしい仕事をされたのではないでしょうか。

和田  会社としては受託したコンサル料は決まっているわけで、通えば通うほど交通費・宿泊費がかさむし、自分も行くと出張手当など飲み代に消えてしまって足が出るんですが、あの当時は熱中して、最後の1年になるまでは、ほぼ毎週のように通っていましたね。かなり自由にやりたいように仕事をさせてもらったかなと思います。でも、ホールの建設が進んでオープンが見えてくると、財団が設立されて職員の皆さんが新規採用で配置され、地元のNPOなども立ち上がって、オープンするとコンサルは必要なくなって仕事としては終わってしまうわけなんですよね。ホールの現場を経験して醍醐味を知っている者としては、やや寂しい思いをするわけです。また、ホールの建設では何十億というお金が動いて、設計施工に関わった企業や設備を納入したメーカーは開館してからも長く保守や修繕や改修やと既得権化していく・・・。一方で芸術文化事業の現場は、チケット代を3,500円にしようか2,800円にしようかと、そういう桁の予算の世界で一生懸命やっている。ホールの管理運営にかかる経費のうち8割あるいはそれ以上が施設の管理や人件費に費やされて、残りの1~2割の予算の中で事業をやっている・・・。ここは果たして自分が長く続けてやっていくフィールドなのだろうかと、改めて「自分の立ち位置」ということを考えるようになりました。



■有限会社ティー・エム・アソシエイツの設立へ
和田  色々悩んだ末に先のことも決めずにコンサル会社を退職して、いざホールの採用があるかといっても、当時「指定管理者制度」が始まろうとしているご時世で、年齢的にも38歳になっていましたし、音楽やホールの仕事など辞めて、一から社会人をやり直すしかないかなとも思っていましたが、たまたま、国際クラリネット・フェスティバルの事務局や横浜みなとみらいホールの契約スタッフ、劇場コンサル当時にご縁のあった福島南相馬の会館からの依頼や単発の現場仕事のお話を頂けたこともあって、「こうして頼っていただけるなら、せっかくここまでやってきて、やっぱり自分が好きな分野でどこまでやれるかやってみよう」と思い立って、自分の会社を設立することにしました。

― なるほど。自分でやると決めたことで、自由にできるようになったのではありませんか。

和田  その頃にお世話になっていた先輩から、「やったことが無いことでも、せっかく声を掛けてもらえたのなら引き受けて、うまくできれば次からは『やれる人』になるのだから、最初から『やったことがないので』と断る必要なんかない」と言われたりした影響もあって、とにかく何でも「ぜひやらせてください」と請けてみることにしました。ある程度は自分の中の基準はもちろんありましたが。

― お引き受けするかどうかの判断は、どういう点ですか。

和田  そうですね・・・ゼロか100ではないですが・・・共感できるかどうか、でしょうか。でも「あなたは、会社としてはほとんど何も実績がないですよね」という言われ方をしたこともありました。確かに会社の実績としてはゼロ・・・だから最初のうちは、やった仕事を一つずつホームページに掲載してみたり、色々な立ち位置の仕事を、とにかく何でもやってみようと積み重ねてきました。

― それから6年間はご自身の会社で仕事をされていたのですね。

和田  そうですね、全てティー・エム・アソシエイツの仕事としてやってきました。コンサル当時に関わった福島南相馬のホールがオープンして、事業担当の方が会館レジデントの青少年のウィンドオーケストラを立ち上げて、手伝ってくれないかと声をかけてくださって、もう一人吹奏楽業界に明るい方が既に手伝っていたんですが、その方と二人三脚で、東京や仙台からの指導者をコーディネートしたり、プロのゲストをフィーチャーする定期演奏会を企画したり、子供たちに合奏のルールやマナーを教えたり、自分たちで自主的に運営する部分を授けて練習計画や楽譜の扱い方を教えたり、そういうお手伝いを何年か、毎月通ってやったりもしていました。そんな中、2011年の震災が起きました。



■宮城県名取市文化会館ヘ
― 震災の前から、東北でのご縁があったのですね。

和田  そうですね、南相馬の事業担当の方が名取の出身で、震災の後に退職して名取の会館に転職されていました。その方から名取で一緒に仕事をしないかと誘われました。

― それはすぐに引き受けられたのですか。

和田  2012年の春から来てくれる実務経験者を探しているということで、2011年の暮れ頃からお誘いの話はいただいていましたが、自分は地元の人間でもないし、とりあえず声をかけてみてくれただけ、くらいに思っていました。もちろん被災地のことや被災した知人のことは心配していたし大変だろうと察してはいても、自分がその町で暮らして働くとはピンと来ていませんでした。と思っていたら、翌2012年の2月になって、「本気で打診してるんだけど。2月15日までに結論を聞かせてほしい。」と言われて・・・びっくりしましたが、逆に東北にご縁がある自分にしかない巡り合わせなのかなと思い決心して、それまで続けてきていた仕事の各所にお断りをして、名取の会館、財団に就職しました。指定管理のご時世とは言っても、改めてホールの職員になるチャンスもなかなか無いかもしれないし、名取市文化会館は劇場コンサル当時に視察したことがあり、高名な建築家の槇文彦さんの建築作品で、良い施設だとは知っていて、「そうしたポテンシャルのあるホールでなら」と思えたので。

― そちらでは事業を担当されたのでしょうか。

和田  肩書上の立場は「施設管理係長」とのことで、もともと自主事業と貸館は両輪、一体的に考えるべきだと思っていたのでお引き受けしたのですが・・・勤務初日に受け取った辞令書を見たら「総務係長兼施設管理係長」と書かれていました・・・。もちろん事業の担当者たちのアシストもしましたが、主には公益財団法人への移行認定のための仕事や、利用規則や備品管理の見直し、新しい施設予約システムの導入、開館以来の文書やデータの整理や事務所内のノート・パソコン化や無線LAN化、長期修繕計画のための洗い出し、そんなような仕事がメインでした。

― これまでとは全く違うジャンルで。またスキルが上がったわけですね。

和田  劇場コンサル当時にホールの建築設備の知識が豊富な仲間に囲まれて働いていましたし、設計・施工・設備の専門の方々ともご一緒させていただいて技術的なこともある程度、概要的にはわかっていましたし、何とかやれたのかなと思います。実際の仕事では、地域性もあるけど、指定管理者制度の現場の難しさを経験しました。時代が変わって指定管理者制度においては指定管理者では決められず設置者に決めていただかなければ進まないことが増えているのだなと感じました。一度財団職員を経験していたので、ある程度は予測していたつもりでしたが・・・思っていた以上に戸惑うことがたくさんありました。

― 公共文化施設の役割や使命、そこに務めることの魅力は何だとお考えですか。

和田  ホールや劇場は、自動車などと同じで、時代の最先端の技術の詰まった贅沢なおもちゃ箱のようなものだと思っています。とにかくワクワクする、そのための場所。そして公共のホールは地域活性化などの目的もあります。文化があるところに町が形成されて、そのための主要な装置の一つと言えると思います。でも、実際には地域の人たちにとって寄り付きにくい公共施設、ホールが日本中の町にあるのではないかと思います。売れる事業だけではいけない、一過性のイベントや消費する文化ではなくて、地域に人に根付く文化にこだわっていく必要があると思います。

― そうしたことを経験した上で、感じることはありますか。

和田  これは、自分が今後何をやって行きたいかということにも繋がるんですが、今は地域のコミュニティが崩壊しているといったことがよく言われたりします。コミュニティのために文化ができることがあるのではないかなと思います。文化というのはお金に余裕のある人がチケットを買って高尚なコンサートを聴くようなものだと言われるかもしれませんが、別にホールだけに文化があるのではなくて、衣食住に結びつくこと、神社やお寺とか、その町で暮らし続けたいと感じられる身の周りのあらゆることが文化であると思っています。一つの町で多くの人が一緒に暮らしていくためには、寄り添って話し合っていく必要があるはずなのに、現代の社会では、それぞれの家庭や人々が自分の身の回りの範囲の権利を主張して、周囲とほどほどに無関係に暮らしたがっている。もちろんその方が気楽なことは自分も良く知っているけど、それではその町に暮らし続けたい思いや文化が残っていかないですよね。文化が根付かないからそうなるし、だから文化が育たない。大人は「この町は田舎だから」「この町には何もないから」「文化とか自分にはわからない」と言い続けて面白いこと新しいことをやってみようとしない、若者は卒業すると町から出て行ってしまう・・・そうしたことに対して突破口になるようなことがやれないかなと思います。これは、復興計画の中で集団移転か現地再建かで揺れる名取の町に暮らしてみて、なおさらそう思いました。集団移転にしても現地再建にしても、住宅や商業店舗や学校や公園などを整備し直しても、伝統的なものはもちろん、新しい文化でも、そこに文化があってこそ、そこで暮らしたい・移転したい・戻りたい、そういうことなんじゃないかなと。今の時代の私たちが言う伝統芸能だって、始まった時はきっと新しかったわけで。自分なりに自分で考えてきたこと、こだわってきたことでもあるので、そうした文化の側面のお役に立てれば嬉しいかなと。



■これからの展望、今後の目標
― 今後の展望やご予定をお聞かせください。

和田  名取に勤務している間休眠させていた自分の会社のティー・エム・アソシエイツを再開します。今までやってきたことを総動員して、今後も芸術文化に関する人・資金・情報などをつなげるプロバイダとしてやれることを、色々やっていきたいと思っています。その中で一つ、横浜市内の劇場を運営するアートNPOの事務局スタッフも請けることにしています。NPOというとボランティアと同じようなものとしかまだまだ認知されていない節もありますが、あくまで職業・プロフェッショナルとして成り立つNPOにしていきたいと思っていますし、これからの芸術文化・ホールがどのようにして成り立つのか、一つのチャレンジの事例としてベストを尽くしてみたいと思います。私は地域文化振興やまちづくりといった地域に根差す住民参加型のホールや、その対極と言えるかもしれない一線の演奏家の公演やイベントやフェスティバルなど興行の現場や、色々やってきました。前者は地域のコーディネーターとして人柄などが求められますし、後者は芸術文化に関する専門的な知識などが求められます。専門劇場、地域劇場、コンサートホールなど、それらを一体的に俯瞰して、求められるものがやや違う複数のフィールドをまたぐ人材もいてもいいのではないかな、と思っています。

― そうですね、そのほうが和田さんの経験が活かせると思います。

和田  横浜には区ごとに区民文化センターがあったりしますが、もともと全市的な方針があったと思いますし、施設同士が連携しながらどうしていくかといったものがあったはずだろうと思うんですが、今は指定管理者制度の時代になって、それぞれの施設を別々の指定管理者が管理運営したり、一部の専門施設は既存の財団が管理運営していたりします。施設間で「ヨコハマの文化は、どこに向かうべきなのか」を、もう少し共有できるといいのかな、そんなことにもチャレンジしてみたい気がします。また、経済論理だけに任せていては、資金がないことを前提にした思考回路に埋没してしまうだけでは、コストのかかる大規模な舞台芸術やオーケストラといった文化は淘汰されて衰退していってしまう、そのことも気になっています。そして今回ティー・エム・アソシエイツを再開するにあたって、今までそうした意識は薄かったんですが、これからのホールを支える若い世代を育てていくこと、若い人たちが職業として長く続けて活躍できる環境を作るためのことをしなくてはいけないと感じています。世代を超えて繋がって、私たちの世代が教わってきたことを次の世代に伝えながらやっていく、繋がってムーブメントを起こして元気なニッポンにする。今、一部では2020年の東京オリンピックに向けて文化にとって追い風という論調もありますが、恩恵に預かれるのは首都圏や大都市の施設・文化シーンなど、ほんの一部の人たちでしかないだろうと思います。それよりももっと先のニッポンの文化の姿を模索する仲間に加わって、そんな中で一石を投じるような一角のことをやれたら嬉しいなと思っています。



■これまでに印象に残っていること
― 何か嬉しかったことや思い出に残っていることはありますか、トラブル等も。

和田  色々ありますが・・・事業の本番当日に、慌てて家から出かけて左右違う色の靴を履いてきてしまったこと。

― それはショックですね。

和田  東京・春・音楽祭のスタッフをしていた当時、演奏会形式のオペラの制作で、海外のソリストたちに誤解を招くドレスコードの連絡をしてしまって、いざ彼らが来日したらバラバラの衣装で、ゲネプロの直前に御徒町の紳士服店を探し回って、他のスタッフがホテルからワイシャツや蝶ネクタイを調達してきてくれて、オーケストラのスタッフが燕尾服を借りてきてくれて、ゲネプロ30分前にやっと衣装が揃った・・・色々な現場を経験してきた中でも最大のピンチ・・・周りのスタッフにもものすごく迷惑をかけてしまって・・・身の細る思いでした。

― お話を聞いているだけでドキドキします。

和田  北上の市民の委員の皆さんとの話し合いで誰からも意見が出なくて、一人の委員が「東京から来たコンサルなんかに、このままいいように誘導されて騙されてていいのかよ」と発言して・・・「先週、皆さん考えてきましょう、ってことでしたよね?」「皆さん自身がどうしたいか、そのためにこうしてワークショップをやってるわけで、コンサルの意向など何一つ押し付けてませんよね?」「じゃあ、あなたの意見は?」と聞くと、「別にオレは何もない」と。腹が立って机を叩いて怒鳴ってしまいました・・・でも、そういう方のほうがかえって、いまだに細くても長くお付き合いが続いていたりするんですけどね(笑)。たくさんの人と出会って、そのお付き合いが続いていることが嬉しく思います。
 多摩に勤めていた当時、お世話になった地元のバイオリン教室の先生が色々と労ってくれたのが嬉しかったですね。働きづめの自分を息子のように気にかけてくださって、色々こっそりとプレゼントをくださったり、今でも毎年発表会のプログラムを送ってくださいます。
 あとは、これも多摩に勤めていた当時、バーバラ・ボニーのソプラノ・リサイタルを担当した時のことですが、終演して楽屋に戻ってきたご本人が恍惚とした様子で「Amazing!!」と叫んで握手を求めてきてくれたこと。ホールの響き、聴衆の反応、ステージや楽屋で一日過ごす中でのスタッフの対応・・・観客が満足してくださるかどうかというのは当然のこととして、演奏家があれほどまでに感激して喜んで帰ってくれたということ・・・ホールの仕事をしていて良かったなと最も思えた公演はどれかと聞かれたら、今でもこの公演のことを挙げるだろうと思います。
 今この場で直ぐには全部は思い出せないですが、他にもたくさんあったように思います。



■仕事をする上で大切にしていること、心がけていること
和田  「Any time, what most important is the priority」何のためにやるのか、誰のためにやるのか。横浜みなとみらいホールでオペラの制作をしていた時、本番に向けたハウプト・プローベやゲネプロやテクニカルのスケジュール、カバー・キャストのための時間組みなどが錯綜して、音楽と演出と舞台の主要スタッフが集まって話し合っていた際に、ずっと黙って聞いていた演出家のミヒャエル・ハンペ氏が発した一言です。それまで散々錯綜していた話が、そのたった一言で、やっと解決に向かいました。最終的にお客様にきちんとしたクオリティの公演を届けることが最も大切、そのため限られた時間をどう使うかと考えれば、答は決まっているじゃないか、と。これは、単に合理主義や効率主義、他のことは切り捨てればいいということと履き違えてはいけないとは思いますが、仕事をしていく上で色々な場面で反芻している言葉です。

― 確かにそうですね。見失いがちですね。そういう信念がないと、こういう世界ってどんどん間違った方向に発展してしまうと思います。

和田  シンプルに考えて何が大事なのか、一緒に同じ方向を向くことができれば。うまくいかないことがあっても、みんなの考えや気持ちを聞きながら整理できればいいのかなと思います。コンサートは独りでは作れないのだから、情報を共有すること、チームワークを大切にして一緒に走っていくこと。あと、人から受けた親切や恩義は先々まで忘れないこと。そしてとにかく、一度請けた仕事はどんな仕事でも請けたからには手を抜かないこと。
 こういうことを一つ一つ書き溜めておけば、考えてきたことはたくさんあったはずなのに、こぼれていってるんでしょうね…。



■フリー回答
― 憧れている人や目標にしている人はいますか。

和田  大勢いますが・・・お一人、予備校時代の英語の先生から大いに影響を受けました。もうお亡くなりになりましたが、駿台予備校時代の英語の奥井先生。魅力的な授業で、受験勉強のためのテキストを、あくまで文学としてのアプローチで読み砕いていくんですね。その中に色々な人生訓話があったり、文化教養があることはもちろん、文化教養に憧れを持つことは良いことなんだよ、ということも教えていただきました。この先生の授業を受けていなかったら、大学に入ってからオーケストラをやっていなかったと思いますし、その後今の仕事もしていなかっただろうと思います。中学・高校とバレーボール部で体育会系でしたし。

― そうですか、ターニングポイントになったわけですね。サッカーもお好きなんですか。

和田  観るのは特に日本代表ですね。最初に勤務した古河電工に入社したのが、ちょうどJリーグが始まった年でした。平塚の工場の敷地でリトバルスキーなどジェフユナイテッドの選手が練習しているのを仕事をさぼって見てたり、競技場に試合を観に行ったりもしていました。

― 子供の頃の夢はありますか。

和田  小学生の頃、建築家になるのが夢だと言っていたような記憶があります。「こんな家に住みたい」という絵を描いたりしていました。奥にこういう部屋があって、階段があって、でも階段は不都合があるからこの向きがいい、とか。

― 設計するというよりも、使い勝手とスペースを考えるような感じだったのですね。劇場内部の配置を考えるようなことで、今に繋がっているように思いました。



― お仕事の宣伝等あればお願いします。

和田  名取から首都圏・横浜に戻ってきて、せっかく再開する会社で、また色々な方々と繋がって、幅広くやっていければと思っています。どうぞ宜しくお願いします。

― 長い時間、ありがとうございました。


■和田知彦 (わだ ともひこ)

兵庫県出身。慶應義塾大学理工学部応用化学科卒業し、古河電気工業(株)入社。
その後音楽業界に転身。1996年(財)多摩市文化振興財団にて音楽事業担当、2000年(株)シアターワークショップにて劇場コンサルティング等、その他多ジャンルに亘る実績を経て、2006年に(有)ティー・エム・アソシエイツを設立。文化事業の企画やコンサルティングの他、舞台監督・ステージマネージャー、ライブラリアン等に携わる。2012年(財)名取市文化振興財団にて施設管理および総務や事業の企画制作実施補助。2015年に(有)ティー・エム・アソシエイツを再開。横浜市磯子区民文化センター杉田劇場委託契約スタッフ(特定非営利活動法人チーム杉劇/事務局長)他。


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